the whole world is peaceful.

about this tumblelog.

tsuda:

inf:

hexe:

tsuda:

swmemo:

tsuda:

「お前のtumblrは何を基準にclipしているのかわからない。賛意・同意なのか、それとも嘲笑なのか、それとも情報のクリップなのか、啓蒙なのか。その態度表明をしないのは、普段主張していることとの整合性がとれないのではないか」とDISられた。

端的に答えれば「そのどれでもあり、どれでもない。そしてそれを表明しない(させないUIになっていることを認識した上で、あえて選択して使っている)ことに意味がある」ということである。

例の酷評エントリについては、意味の通りにくい(そして、悪意の切れ味だけは抜群になるだめな)酷評という行為において、言及される側と酷評する側の1対1の関係性から生じる齟齬を問題にしただけであり、あれは別に俺がすべての情報発信について態度表明を明確にするということとイコールではない。

今後はより混沌としたtumblelogにしていこうと思う。もちろん、俺が考える「公正利用」の範囲内でという枠はそのままで。

tumblrはプラットフォームだ。ツールとして考えるより、今のネットのダメな部分も内包した新しい情報流通の「プラットフォームのフレームワーク」と考えた上で、ノイズやフリーライダーが多数混じること込みで、ここで起きる現象を是々非々の形で次の情報流通構築に生かしていけばいい。

そう、それぞれの人がclipした理由がなぜだろうか、というのを書く書かないはひとつポイントなように思います。なんかの途中の現象を見てるんでしょうね。そして、タグをつけないとclipしちゃいかんとか、○か×かをつけなきゃclip出来ないとかそういう仕様が正しいかと問われると必ずしもそうじゃないように思ってます。この辺、まだ思考は道半ば。

tumblrの不便さという近しい場所であったのですが、ひとつは、このclipの意思が分からないのでコンテクストが分からずに読みづらいこと(が、これは逆に流通を促進もするのでマイナス事項とも言い切れない)、ひっくり返して自分のclipが広がる際に十分なコンテクストを維持出来ないんだろうな、というもの。でもって最後に、そもそもそんなものはこの場においては気にして維持する必要なんかあるのだろうか、というところ。

そうなんですよ。だから僕はQuoteで全文引用を極力避けているのは、コンテクストが消失するアーキテクチャをtumblrが持っていることと表裏一体で、失われたコンテクストを補完するためにQuote先にジャンプする、もしくはQuote / Reblogした人がどういう意図を持ってその行為を行ったのか、それまでのその人の言動やパーソナリティーから総合的に自分で判断するという一連の行為に新しいネットのアフォーダンスが生まれてるんじゃないの、と考えてる部分があるからだったりもします。もちろん、気楽に興味深いテクストや面白画像をclipしてる部分があることも否定はしませんが。そのあたりを意図的に混ぜられるのがtumblrの面白いところだと思うのですが、使う側読む側がそれを不安に思ったり、イラっとしたりするところはあるんでしょうね。情報消費のスタンスの問題と許容度の問題と著作権法的な問題がぐちゃぐちゃになってるから、そのあたりを一度きれいに整理しないとtumblrの是非の議論とかするのは不毛だと思いつつ、運営側がそんな議論をあざ笑うかのようにサービスをどんどん進化させているので多分そんな議論は全然tumblrに追いつけなくて、議論をすること自体にあんま意味がないんでしょうね。種だけ蒔きまくるという姿勢と、その無常観が僕は好きだったりします。良くも悪くもネット的。

Tumblr や Reblog 行為に意味を求めるなんて意味があるの? それは自然現象に「神の作意」を求める宗教とほとんど変わらないんじゃないの? 個々の思惑を丸めて「現象」として無意味化してしまえるから Tumblr (っていうか Dashboard)は面白いのに。

何だかルーマン=ハーバーマス論争の再発見みたいな展開になっているな。このやりとりの中で、文脈、コンテクスト、意図等について触れられているけれど、(ルーマン的な立場をとるならば)「完全なコミュニケーション」なんて人間には現時点で発動不可能であり、あるいは(ハーバーマス的なスタンスを採用しているにしても)「コンテクストの共有」という前提を何の譲歩や定義も抜きに話を進めることは、多くの先達の諸所産もある以上、批判を免れないと思う。

ありふれた言葉かもしれないが、数千の言葉をもってしても伝わるかどうかが分からないのが、文脈というか「発話の意図と目的」である。言い換えれば、「コミュニケーション」とか「文脈の把握」を、どの程度のものとして定義するかという問題でもあるのだけれど。

つまり、Tumblrであろうと、ブログであろうと、(社会システム論的に言えば)コンテクストは共有できていないし、齟齬は生じるし、失われ続ける。Tumblrは「たまたま」文脈の欠如が比較的「目に見えやすい」のでそのことを指摘したくなるけれど、上述の問題は根本的にはTumblrのインターフェイス上の問題ではない。

なお、ルーマン的に言うならば、齟齬が生じても問題は無い。彼は、(齟齬が生じていたとしても)何らかの情報が行きかえばコミュニケーションだと定義したからだ。でも、ハーバーマスのようにコミュニケーションに「相互了解」などの概念を盛り込もうとするなら、もっと議論をつめなくてはいけないだろう。
逆の観点から書くと、文脈を共有していると錯覚できる環境にあるときほど、サンスティーンの言うところのecho chamberに陥りやすい。ほとんど何も言わなくても、何となく分かり合えたと思ったら、あなたの意見に同意してくれた周りの人たちは、各々の文脈から見てその発言に正当性を見いだしているのだと理解すべきである。そして、これもまたサンスティーンが言っていたように、同質的な見解を持っている(と参加構成員らが思い込んでいる)集団こそ、その意見は先鋭化しやすくなる。

えらく頭でっかちだな。まるで、この bit な世界が controlable みたいにいってらー。すでにオレらはフィルターでしかないのに気がついてんでしょ。アハハ、まあ、たのしくてしょうがないんでしょ、ミンナ。タンブラ語りが。さてさて、Love & Oees! 声が小さい!!! Reblog & Peeace! もういっちょ、Oeees!!! その辺に転がってるような適当な Reblog per Minute だと置いていかれっぞ。お子様扱い。More Reblog!, More RPM!